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イベントのお知らせ

ポスター4.2
フレンチでアンチエイジング
と題して
4月2日
フェルミエさんでイベント開催します。

アンチエイジングのお話をしながら、
フレンチのお料理でフェルミエさんのワインで
皆様で楽しくお勉強、ディナーを楽しむ催しです。
奮ってご参加ください。

予約制です。ご連絡はクララクリニックまで
025-232-4134

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おすすめ図書をひとつふたつ その26

吉岡弥生伝
○初めに
どうして人間は雄雌両方の性があるのだろう?雌雄同体の動物だってこの世にあるというのに。そうすれば恋愛など無駄な時間を過ごさず、種の保存ができるではないか。
百歩譲って男にうまれたかったなあ。なんで女に生まれてきたんだろう。などとティーンエイジャーのころは考えていました。変な子だよねー。

この度、新潟市医師会に女性医師の会が設立され副会長の任を仰せつかりました。これまで男性だとか女性だとか考えて仕事をしてきたわけではなく目の前にある仕事をひたすら こなすべく日々を生きてきました。このような私にいよいよ「女性」を「考える」機会がやってきたのでした。

そんなわけで参考になる本はないかと探していたところ偶然、宿泊した宿で香川綾先生(女子栄養大学創設者)の自伝をみつけ、読みすすんでいくうちに東京女子医大出身とわかり、東京女子医大創設者である吉岡弥生先生の自伝にいきつきました。おりしもNHK朝ドラで 広岡浅子女史がモデルとなったドラマをやっています。同じ時代の話です。タイムリーだなあ、と思いご紹介する次第です。

○時代背景
吉岡弥生は明治4年(1871)生まれです。(ちなみに広岡浅子は嘉永2年(1849)生まれ、香川綾は明治32年(1899)生まれ)昔の人はお医者さんになるためには、どうしていたのでしょうか。江戸時代、原則、世襲制なのでお医者の子はお医者になったのでしょうが、そうでないうちの子は修行に出て、えらい師匠(たとえば尾形洪庵のような)のもとで学び、適当な時に独り立ちをしていたようです。昔のお医者さんはほぼ皆さん漢方医なので、脈や顔色をみて、判断し、生薬を調合して、投薬していました。ところが、医術開業試験、今の医師国家試験のような試験が明治8年からはじまりました。これによってだれでもお医者さんになれるわけではなく、西洋的な医学知識も必要となりました。試験は前期後期あり大変難しかったようです。しかし、この当時はまだ医学校の規定はなく、小学校卒でも医師になろうと思えばなれました。事実、吉岡弥生は小学校卒業のみでした。医術開業試験制度が始まってから試験のための専門的な勉強が必要になります。このため専門知識を教える予備校のような塾のような学校ができてきました。この塾は日本にいくつかありましたが入学試験はなかったようです。吉岡弥生が通った塾は「済生学舎」で毎月月謝を払って学ぶというシステムでした。
さて吉岡弥生は静岡県の医師の家に生まれ、兄2人がいましたが、2人とも済生学舎に通っていました。このため二人の兄を頼って上京したのでした。ここまで書くとなあんだ、お医者になるのって意外と簡単じゃん と思いますが、このような塾はしばらくの間、女子に門戸を開いていませんでした。済生学舎が女子生徒を初めて入学を許したのは明治17年、高橋瑞子さんが初めてで、それ以来、女医をめざす女子がこの塾に多く入学したようです。そして明治8年に始まった医術開業試験ですが、なんと女性に受験が許可されたのは明治17年でした。(遅っ!)
大正5年(1916)からは医学専門学校を卒業した者のみ受験資格が与えられるという、現在と同様の方式になりますが、その前は学校を卒業しなくても試験さえ受かればお医者さんに なれるという状況でした。
さて、女医さん第一号は荻野吟子(嘉永4年1851生まれ)です。16歳で結婚、品行の悪い夫から性病を移され離縁までされました。男性医師に治療を受けたことが屈辱的と思われ、同じ病気をもつ女性に対し女医の必要性を感じ女医になろうと決意した人です。初めは東京師範学校に入学し、先生になり、家庭教師などで学費をかせぎながら、受験のため私学の塾に通い、明治17年を待って受験、合格したのだそう。合格時は33歳となっていました。女医第2号の方は記録があまり残っていないとのことです。第3号は高橋瑞子(嘉永5年1852年生まれ)です。大変貧乏で、自律してお金持ちになりたいとの思いで志をたてます。まず、お産婆さんになってそれから婦人科医になろうと考えます。済生学舎は女子を入学させないと聞き、がんばって門戸を開き、とうとう医師になりました。
吉岡弥生はこのような先人たちががんばってくれたおかげで自分がいると考えていたようです。

○吉岡弥生の思いーーなぜ女子だけの医大を作ったのか?
私は新潟大学医学部の卒業です。大学に入学当時、女子医科大学の存在を知り、なんで女子だけの医大があるのだろうと思っていました。なぜだったのでしょう。

ひとつは母に対する思いがあります。以下、弥生本人の弁です。

朝夕の掃除、三度の食事、着物の繕いや洗濯、母は身を粉にして働き続けていたのでした。人の着物はこしらえてもめったに自分の着物をこしらえたことはありません。お風呂をたててもみんな順繰りに入れてしまって、一番あとの濁ったぬるいお風呂にはいらなければなりません。家族の者のためにいろいろおいしいご馳走を作っても、自分はみんな食事が終わった後で食べ残りのおかずを集め冷飯をよそってそれで満足していたようでありました。これはひとり私の母ばかりではなく封建的な当時の家庭では決して珍しくない光景でありました。晴れ着一枚作るのに、糸を取ったり、機を立てたり、着物を縫ったり、一枚の着物をつくる労力がどんなにたいへんなものか、そのたいへんな仕事を骨折りとも思わないで働き通している母に対して自分の実地の経験から新しい敬意と驚異を感じましたが、しかし時代のちがいは恐ろしいもので、私はどうしても母のような立場に自分の身をおきたいとは思いませんでした。古い家庭の中で女の伝統を守って一生を果たす夫人の根気と努力の貴いことは、改めていうまでもないことですが、日本の女がいつまでもこんな仕事に精力のすべてを費していていいものであろうか、時間の経済を図って、それだけの精力をほかにむければ、もっとなにか新しい大きな仕事ができるのではないだろうかーそういった反省やら疑問やらが湧いてきまして、私は二度と自分の晴れ着をこしらえてみる気にはなれなかったのであります。

つまり母の姿から女性の日常の大変さは力の無駄遣いと感じ、女子も仕事を持ち、その能力を活かして自律したいと感じたのでありましょう。

ふたつめは
通っていた済生学舎のひどさからでした。男子生徒からいじめられたり、野次をとばされたり、ストーカー行為があったり、それはそれはひどかったそうなのですが、学校側はそんな風紀問題に対して何も対策をとりません。なにせ女子学生を許可してすぐだったからです。そして一番こまったのが包帯の実習でした。男性の前で肌を見せることができなかったからです。女子だけの学校だったらどんなによいでしょう、と思ったに違いありません。

三つめは、済生学舎が廃校となったからでした。済生学舎の創設者は長谷川泰という人で、その当時、高橋瑞子が門戸を開いてから女子学生が多く通っていのだそうです。ところが済生学舎が専門学校に昇格するのに女子学生がいては足手まといになるというので、女子の新入学者を断り、さらに在学中の女子学生をも投げ出してしまいました。そうまでして専門学校昇格を準備していた済生学舎でしたが学閥派閥の関係やら慈恵にさきを越されたとかで舎長である長谷川泰は憤慨して学校自体を廃校にしてしまったのでした。しかし、その後、医師を目指す女子のことを心配し、弥生の所にさりげなく来て「できるか。」と聞いたのだそう。この「できるか」というのは、女子が入学できる、医学塾の開塾ができるかどうかという意味でした。それでは私が立ち上がろうと思い、自分が開業していた至誠医院の一室を女医を目指す者のため医学の私学塾として開講したのでした。ほとんど準備もせず「東京女医学校」の看板を出して。明治33年12月、弥生30歳のことでした。

本人の弁です。
済生学舎が女学生の入学を拒絶した知らせを聞いたとき私の頭へ一番先にきたのは、今後の女医の志願者の運命や日本の女医の将来がどうなるのであろうかという問題でありました。明治17年、先輩の高橋瑞子さんが身を投げ出して済生学舎の門戸を開いて以来、辛うじて女子就学の道が拓けそのおかげで私なども女医になれたわけです。その門戸が閉鎖されたのでは在学中の女学生を最後として日本の女医の根が立たれてしまうのは火を見るよりあきらかでした。そう考えていると血の気の多い私は立っても居てもおられない気がしました。殊に女医になろうとして準備をしていた人たちは不意に学校の門が鎖されて路頭に迷うような結果になっていましたから何をさしおいてもこの気の毒な人たちを収容して勉強を続けさせるようにしなければならぬと思いました。
学問もなければ財産もない、市井の一女医にすぎぬ私が、学校を作って、女医の養成にあたろうとしたのは冷静に考えたならば、あるいは無謀の業に近かったかもしれません。しかし
せっかくここまで築きあげてきた日本の女医の伝統はあくまでも守っていかねばならぬという使命感が私を立ち上がらせました。たとえ一時のつなぎにせよ、女医の命脈だけは絶ちたくないというのがそのときの私の衷心よりの願でした。

というわけで東京女医学校が始まったのでありました。たった一部屋、たった4人の生徒からの出発でした。
その後、この小さな私塾は,明治45年、東京女子医学専門学校に、昭和27年、東京女子医科大学へと大きく変貌をとげたのであります。

○夫婦愛
偉業を成し遂げた女性にいえる共通点は夫との夫婦愛がすばらしいことといえましょう。概して、皆 おおらかで、包容力があり、細かいことを言わず、協力的な旦那様が多いような気がします。吉岡弥生しかり、香川綾しかり、広岡浅子しかりです。女性が大きく羽ばたけるのは旦那の力と言っても過言ではないでしょう。

吉岡弥生の夫、吉岡荒太は佐賀県の出身、代々医師の家系でした。医師になるべく上京しましたがチフスになり脚気になり、療養生活を送りました。その後、生活費や学費かせぎのためドイツ語を教える私塾を開きます。そのうち弟2人が医師を目指して上京、弟たちの面倒みるためドイツ語塾がやめられなくなり、自分の医師になる夢はあきらめたという人、弥生はドイツ留学を目指してドイツ語塾に行ったさい、教えてくれた先生が荒太であり、荒太の弟たちに頼まれて結婚に至ったのでした。結婚後、荒太は親の勧めもあり、ドイツ語、英語、漢文も加え高校受験用の予備校とその生徒用寄宿舎と事業を拡大することにしました。この事業には夫婦ともども助け合って経営にのりだしましたが、やりくりはいつも赤字続きだったため、経済的に助けるため弥生は本格的に開業医として働きだします。これが東京至誠医院です。このような経緯があったため、弥生が女医学校を作ろうとして相談した際、荒太はもろ手をあげて大賛成だったのだそうです。

弥生いわく
荒太は女に対して別に西洋流の新しい意見を持った人ではありませんが、こせこせしたことを言わなかったところにこの人の持って生まれたえらさがありました。つまり目のあらい大きな網に私をつつんでくれたようなものであります。女の運命を決定する重大な結婚の出発点において、こうした無口でしかも包容力のある東洋型の人間を良人(夫)に選んだことがその後の私という者の成長にどれだけ幸いしているかしれません。私の選択は決してまちがっていなかったと信じております。

さて皆様、開運の鍵は家庭にあり、どこか遠くのパワースポットにあるわけではないようですね。結婚している女医の皆さま、家庭を清潔に、つつましく生活し、おいしい家庭料理をつくり旦那様を大切にいたしましょう。偉業がなしとげられますぞ。(今回はこれが言いたい。)

○おまけ
弥生が出た済生学舎ですが、創設者は長谷川泰、この方は長岡藩、藩医の家系で、なんとあの有名なご家老、河合継之助を看取ったドクターだったとのことです。
明治36年廃校になった済生学舎ですが、済生学舎同窓医学講習会が軸になり現在の日本医大となっています。

医者×主婦 予測する エピソード5

特に困ったのは子供が病気の時です。なにせよく熱をだすのが子供、そして突発的、
そして順番にうつっていきますから。旅行の日程がたっているのにひとりの子が熱を出す
ということはよくありましたが、旅行を中止にすることなく病児も連れておんぶにだっこで
がんばりました。ディズニーランドに行く なんて時はひとり、子供が熱を出したなんて
言って中止にできるわけがありません。熱出した子はずっとおんぶでディズニーランドを闊歩するわけです。
札幌雪祭りに出かけた時にひとりインフルエンザを発症した子がいました。
この時は北大の岩永先生の研究室(北海道大学医学部解剖学教室)にかけこみ
休ませてもらいました。残りの子は夫が観光に連れ歩きました。
こういう時は予測がききませんが、もし、こうなったどうしようとシュミレーションを
しておくとあわてずにすむようです。さらに上級者テクとしてはすべての仕事を
早め早めにやっておくことでしょうね。私はなかなかできませんでしたが。

医者×主婦 予測する エピソード4

予測する。の上級者編です。
子供の動向を予測する、です。これもっとも難しいですよね。

私は2歳違いの子供が4人います。(今は皆、成人しました。)
3人の時はさほど大変とは思いませんでしたが、
4人になって急に“迷子にする率”が上がりました。
どこへいっても迷子を出す。そんな状況でした。

デパートに行って おもちゃ売り場の階でエレベーターの扉が開く、と
4人が4方向にダッシュするのです。クモの子を散らす、という表現がありますが、
こういうことだなあという感じです。デパートがすいていればよいですが、
混んでいる土日などはもう対処できません。
そこで、
それぞれ興味を持っているところにしか行かないので、そこを把握して
巡回することにして、ときどき“おしっこ出ない?大丈夫?”などと話かけるようにしました。
(夢中になっているので気づかれないことが多い)

迷子になった場合はそれぞれ個性があって
積極的に迷子をアピールする子、自分が迷子になったことを隠したがる子がいて、
前者は迷子センターに行くとほぼ“いる”ので、簡単でしたが、後者は迷子と
思われないように存在できる、入口付近などを探しました。一緒にいった夫が
役に立つこともあるので(立たないこともある。)うまく活用しました。
そのうち一番上の子が使えるようになりました。(子分のように)

子供は成長します。興味をもつものもかわりますので、ずっと同じというわけではありません。
また、親である私の側は年をとっていきますので体力が落ち、すばやく走れなくなるので、
工夫が必要になってます。
お出かけする日、する場所を空いているところにする。などです。なにせ子供は集合場所なんて
言ってもわかるわけないですから。

医者×主婦 予測する エピソード3

医師のQOLは周囲のQOL

前回お話したように予測指示がうまく出せるようになると
働いている看護師さんのストレスが減ります。
ポケットベルをコールして応答を待つ時間おそらく7-8分間患者さんに不安な思いをさせっぱなしにさせておくからです。
さらにそこから医師が病棟にやってくるから待てとなるとさらに30分くらい待っていなければなりません。
患者は一人ではありません。すごいストレスですよね。患者さん自体も早く処置をしてもらいたいわけなので、
待たされるのは苦痛です。
さらに家庭ではシチューを作っていたお母さんが急に呼び出されてシチュー作りは中断、そこから病院に
行かなければならなくなったら子供たちは「いつ僕たちはごはん食べられるの」状態に陥るわけです。
ポケベルがなった私自身も「あーー、あーー」ってな感じです。。周囲の皆のQOL(生活の質)が、
私のQOLが、一気に下がってしまうわけです。

なのでなので
予測する力をつけ、上手に支持を出す能力をつけていかなければなりません。

プロフィール

claraclinic

Author:claraclinic
八木澤 久美子。内科医。4児の母。ワーキングマザーの方々へ何か参考になるかと思いブログを開設しました。クララクリニックのホームページへもどうぞ!

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